隣の芝生は本当に青いのか
こんにちは。じんびです。
今日は人と自分を比べてしまう心理について。
私たちは人生のごく初期の段階で、
人と自分を比べるという経験をします。
そして比べる対象は競争相手となります。
最初に出会う競争相手はおそらく兄弟姉妹。
ひとりっ子なら親戚や近所の子供たち。
そして幼稚園や学校に行くようになれば同級生たち。
比べるのはなんらかの基準において同程度の相手。
あまりに違いすぎるものは比べる対象になりません。
たとえば、
年齢や能力の近い相手、
あるいは何かを取り合う相手。
聖書に出てくるカインとアベルは兄弟でした。
兄のカインは地を耕し、収穫した農作物を神に捧げ、
弟のアベルは羊を飼い、肥えた子羊を神に捧げました。
神はカインの捧げ物を無視し、アベルの捧げ物のみを受け取りました。
そのことでカインはアベルを恨み、
嫉妬にかられて弟を殺してしまいました。
人類最初の殺人といわれています。
こうした兄弟間のいざこざは、
聖書に限らず、世界中の神話にひな形があります。
太古の昔から兄弟は競争相手であり、
肉親であるが故に激しい嫉妬や憎悪の対象だったのでしょう。

競争の根底にあるのは欠乏感です。
限りあるパイを奪い合うという思考。
誰かが愛されれば自分への愛が減ってしまう。
神がアベルを愛するなら自分は愛されない
ママはお兄ちゃんだけ可愛がって私のこと嫌いなんだ
部長は同期のあいつばっかり気にかけて俺のことは無視だ
愛情だけでなく、お金も成功も名声も同じ。
誰かが手に入れれば自分の分が減ってしまう。
だからいつも競争相手と張り合い、
少しでも自分の取り分を多くしようとする。
その過程で、常に競争意識、比較意識がつきまといます。
人と比べ、劣っていると劣等感をもつ。
あるいは、自分のほうが優れていると優越感をもつ。
この2つは正反対のことのようで、実は根本は同じです。
それは、判断の基準を外に置いているということ。
劣っているか優れているかを判断するためには、
何らかの基準が必要になります。
カインとアベルのお話では、
神がどちらの捧げ物を受け取るかが基準でした。
外部の基準で優劣を判断してしまうと、
常に不安がつきまといます。
私たちはどうしても、人と自分を比べ、
自分にないところばかり目についてしまいます。
他の人にはなくて、自分にはある美点にはなかなか気付かないのです。
隣の芝生は青いといいますね。
しかし、
すべての面で秀でている人はいません。
すべての面で劣っている人もいません。
何かひとつの面だけを取り上げると、
どうしても優劣が存在するように見えます。
しかし、それはある局面、ある状況においてのみの優劣です。
それ1つをとって人としてどちらが優れている、劣っているということではありません。
基準を外に置くと、常にその基準を追いかけることになります。
そんな状態が続くと疲弊してしまいます。
神に愛されるかどうか
ママにかまってもらえるかどうか
上司に気にかけてもらえるかどうか
そのような、自分ではコントロールできないことを基準にしてしまったら、
相手の態度に一喜一憂しなければなりません。
これは、基準は外に置いていても、意識は内側を向いているということです。
つまり、自分がどう思われるか、どう評価されるか、
自分のことばかり考えているということです。
劣等感から解放されるにはどうすればいいか。
反対にすればいいのです。
基準は自分の中におき、意識は外側を向く。
つまり、自分がどう思われるかではなく、
どう相手の役に立っているかを考えるようにするのです。
それを自分の行動の指針とし、
相手の役に立てる喜びを評価の基準にします。
「人からよい評価をもらえる自分」ではなく、
「人の役に立つことを喜ぶ自分」を目指すということです。
自分が誰かの役に立っていると実感することは、
私たちに幸せと安心の気持ちをもたらします。
以前にも書きましたが、私は周りの人と違っている自分を
劣った存在だとずっと思ってきました。
他の人と同じように振る舞えない自分、
他の人と同じことを楽しめない自分、
それに劣等感を持っていました。
でも私たちはひとりひとり違うところと似たところを持っています。
私は「他の人」とひとくくりにしていましたが、
私が違っていると感じていた人たちも、それぞれ同じように
他の人との違いや共通点を感じていたのです。
そして、特に違っているところは同時に強みになると気付きました。
私のそのとがった部分は使いようによっては人の役に立つのだと知りました。
自分では気付かない輝く個性
それが「ジーニアス」です。
どんな人にも必ずあります。
本当は隣の芝生と同じくらいあなたの芝生も青いのです。
あなたの中で発掘を待っている
ジーニアスを見つけてみませんか。








