頭の中の声
デカルトは言った。
コギト・エルゴ・スム
我思う、故に我あり。
思考こそが自分が存在している証明だという。
はたして本当にそうだろうか。
私たちは常に何かを考えている。
いや。
考えているというよりは、思考が勝手に起こっている。
○○について考えよう、と意識的に思考している時間もあるかもしれないが、
ほとんどの場合は、ふと気がつけば何かを考えているのではないだろうか。
いつからその思考を始めたのか、何がきっかけだったのか。
ほとんど思い出せない。
誰かについて、あるいは何か出来事について、
主に批判的なコメントを考え続けている。
まるで目の前にいる誰かに話しかけるように。
歩いているとき、家事をしているとき、
気がつけばずっと頭の中でしゃべり続けている。
批判したり
後悔したり
言い訳したり
能動的に考えているというよりは、
思考に乗っ取られているという感じ。
以前はずっとそんな感じだった。
あの人はあんなことをするなんて、間違っている。
私なら絶対そんなことしないのに。
あんなこと言うべきじゃなかった。
もう少し調べてから発言すればよかった。
誰かのことを批判したり、
自分のちょっとしたミスを繰り返し後悔したり、
いつも頭の中には自動生成される思考がぐるぐると回っていた。
しかし、自分の頭の中の声に気づき、
それが自分の意思とは関係なしにそこにあるものだと認識したときに、
強迫的な思考から解放された。
それでもまだ思考は勝手に起こるし、
頭の中の声は続くけれど、
それに乗っ取られることは少なくなっていく。
思考をシャットアウトし、
意識的に何も考えない状態をつくることができる。
思考の向こうにある静寂の中にくつろぐことができる。
そして、私の感覚だと。
思考に乗っ取られる時間が少なくなればなるほど、
逆にいえば、
勝手に起こる思考に気づき、観察する時間が長くなればなるほど
幸福感が大きくなっていったように思う。
強迫的な思考こそが不幸を生み出す原因になっていたのだろう。
頭の中が何かに乗っ取られて、ネガティブな思考を延々とまき散らす。
まるでそれが自分の考えかのように。
しかし、この強迫的な思考は私のものではない。
なぜなら私の「意識」がこの思考に気づいたとき、
それらは力を失っていったから。
光の前では闇は存在できないように、
意識という光の前では無意識の思考は存在できない。
今まで「私」だと思っていた思考たちは、
本当の私ではなかったということ。
「我思う」を超えたところに真の存在の証明があるのかもしれない。










