「同じ人間なんだから理解し合えるはず」は正しいのか
こんにちは。じんびです。
私たちは心のどこかで「同じ人間なんだから理解し合えるはず」と考えているところがあります。
特に日本は同質性が求められる文化で、
みんな同じ、みんなわかり合える、という暗黙の了解があります。
しかし、私はそれは幻想だと思っています。
どんなに努力しても理解し合えないこともあるのです。
でもそれは悪いことではありません。
理解はできなくても受け入れることはできますし、
理解したいと歩み寄ることもできるからです。
理解できると思っているから、
相手が自分とまったく違う考えを持っていることを受け入れられなかったり、
違う考えを持つ人を排除しようとしてしまうのです。
理解できないと認めることで、対立構造から脱することができます。
日本では、同調圧力といって、多数意見に従うべきだというような空気があります。
みんなが賛成しているときに自分だけ反対するのは和を乱す行為だと
無言の圧力を感じてしまいます。
たとえば、オリンピック・パラリンピックやワールドカップなど、
何かスポーツイベントが盛り上がっているときに、
何人かの人とその話題になったとします。
Aさん「昨日の試合見た?すっごく盛り上がったよね!」
Bさん「うんうん、○○選手のプレーすごかった!ベスト4まで行くとは思わなかった!」
Cさん「ルールとかよく分からないけど、 ○○選手がすごいことだけはわかったよ(笑)」
Aさん「僕は高校時代にやってたんだけど、日本代表があんなに強くなったなんて感慨深いよ」
Bさん「じんびさんは見た?」
私 「・・・」
(心の中で)
スポーツまったく興味ないし、
試合も見てないし、
でもここで「興味ない」とか言うと白けてしまうよな・・
私 「あ~、すごかったよね。次はブラジルと対戦だっけ」
Aさん「そうそう。強豪なんだよ。ブラジルには○○という選手がいてさ・・・・」
場を白けさせるのがためらわれて、私は話を合わせることを選択します。
本当は興味がないし、その話題を続けたい気持ちもないのだけど、
この空気の中でそんなことは言えません。
話を合わせつつ、ニュースで聞きかじった話題を出してみたり。
スポーツイベントで連日寝不足になりながら熱狂して試合を見たり、
パブリックビューイングのあるパブで応援しながら大勢の人たちと盛り上がったり、
とっても高揚する楽しいひとときですよね。
でも私にはそういう人たちの気持ちは「理解」できません。
私にとってはあまり興味をそそられるイベントではないからです。
ただそういうことが好きな人もいるということは理解し、受け入れています。
私にとっては、1日自宅で本を読んだり猫と遊んだりするのが
最高に幸せな時間の過ごし方なのですが、
外出して人と会ったり、体を動かしたりするのが好きな人にとっては
私の気持ちは理解できないでしょう。
反対に、私も休みの日にわざわざ人混みに出かけていく人の気持ちは分かりません。
人はみんな、似たところがあれば違うところもある。
ある部分に関してはとても似ているのに、
別の部分では全く違う、ということもあるでしょう。
似ているところは理解できるし受け入れやすいのですが、
違うところは理解できないため受け入れられない
そうなってしまっていることが多いのです。
今回の事例ではたいしたことではありませんが、
これが人生において重要な考え方や、
対人関係上の価値観だったりすると、
違いが大きなトラブルの元になることもあります。
というか、対人関係のトラブルのほとんどはこういうところから来ています。
私たちは皆、多かれ少なかれ「理解して欲しい」という気持ちを根源に抱えています。
だから理解できない人を無意識に恐れ、遠ざけようとしてしまいます。
しかしそれでは多様な人たちとの豊かな関係を築くことが難しくなってしまいます。
人はさまざまな面をもった存在です。
まったく理解できないと思った相手でも、
その人を受け入れ、理解したいと歩み寄ることで、相手も心を開いてくれます。
その人の別の面が見えたとき、
もしかしたら誰よりも深く理解し合える人になるかもしれません。











